


1.世の中のみんなが管理予防に通ってもらえるようにする。
2.去年10kgやせたので、今年も10kgやせる!
3.スキーがうまくなりたい。
虫歯のない社会を作る。

城北学園高校 卒業
国立新潟大学歯学部歯学科 卒業
日本口腔インプラント学会会員 1992~現在
日本歯周病学会会員 1992~現在
日本自家歯牙移植学会会員 1993年~現在
歯性感染症を考える会会員 1998年~現在
亀戸モダンエッジワイズ法矯正研究会 1997~2001
日本ヘルスケア研究会会員 1998年~2004年
オーラルフィジシャンコース(歯科予防学)終了 2005年
神奈川歯科大学 成長発達歯科学講座・歯科矯正学講座 大学院研究生 2006~2009年
(Division of Orthodontics, Department of Craniofacial Growth and Development Dentistry, Yokosuka, Japan)
IAAID アジア部会会員 2009~
(The International Association of Advanced Interdisciplinary Dentistry 国際先進学際歯科学会)
米国歯周病学会会員(AAP=The American Academy of Periodontology)
ダイアナ・クラール(ジャズ歌手です)

20数年前に歯科医師になったとき、始めは歯周病や外科・インプラントなどに興味があり、より高度で先進的な治療をしたいと勉強していました。しかし、しばらくそういうことをやっていると、定期的なメインテナンスをしていない患者さんは、歯周病等は必ず再発し高度な治療をしてもまた元の木阿弥になってしまうという症例をしばしば目にするようになりました。
これではいけない、なんとかメインテナンスの体制を整えなければ、と考えていました。その時に友人の勧めでヘルスケア研究会というむし歯と歯周病の予防を目指す社会運動のような会に誘われ、そこで日本で今行われている削って詰めてばかりの歯科というのは世界的に見れば異常なことばかり、これは患者の為になっていないばかりか歯科界をも駄目にしていると教えられました。
高度な治療ばかりを追い求めていても、予防等のベーシックなシステムを整えていないといくらやっても無駄ということを知ったわけです。さらに成人の歯周病などにばかりに目を向けていた私に、小児の頃からのむし歯予防も何より大切だとも教えてくれました。

その後今日まで、当院でもむし歯・歯周病の予防・メインテナンス活動を続けて実感したことは、「継続してメインテナンスを受けている人はむし歯も歯槽膿漏もほとんど進んでいない」ということです。このとこは様々なデータが裏付けていることであり、当院でもこれから統計を採って実証していくつもりです。そして自分で一度治療した患者さんは責任を持ってメインテナンスを続ける体制を作らなければならないと感じました。
それには患者さんがメインテナンスだけで通いやすい診療室を作らなければならないと考え、予防メインテナンス専用の部屋を開設したわけです。
余談かも知れませんが、暫く前に英会話教室のアングロサクソン系の方々が多く来ていたことがありました。彼らはむし歯がとても少なくて、メインテナンスだけを受けによく来ていました。欧米では予防やメインテナンスだけの為に年に数回歯医者に来るというのは常識なんですね(北欧で90%、米国でも70%)。この時は「むし歯予防って出来るんだ」ということをまざまざと見せつけられた思いでした。定期的に通い歯は削らないというのは私たちの当然進むべき道であり、まだそうなっていない我が国を省みて歯科医師としての責任を感じました。「まず予防をきちんとする。そして仕方なく治療になったらそれは高い精度できっちりやる。そしてそれをしっかりメインテナンスしてもたせる」ということが重要です。
最近では、ここ2年ほど医療系のNPO法人に関わるようになり患者代表の方や新聞記者、中医協委員などと直接話をする経験を持ちました。これらの方と話をしていて、日本の歯科界がとても多くの問題を抱えているということを聞かされました。それは歯科界が患者よりも自分たちのことばかりを考えているとか、技工士や衛生士の労働環境や働く意義を考えてこなかったなどなどです
なかでもむし歯や歯槽膿漏の予防が不十分であるという声は非常に多く聞きました。健康意識や社会意識の高い国民(=患者さん)は歯科医師が思っている以上に予防などの歯科界の改善を望んでいると知りました。これに応える為には、予防活動に加え、コンプライアンス、アカウンタビリティ、技工物のトレーサビリティなどを改善することが重要でありこのために ISO 9001という手法をこの3年間用いています。予防・メインテナンスという院長一人ではできないことをやるにはシステムを作って医療の品質管理をすることが必須ということです。

患者さんにも、スタッフにも、そして医院にとっても、皆が満足出来るシステムを作りたいと思っています。
患者さんに対しては自分や家族が受けたいと思える治療、予防、メインテナンス、説明。そしてスタッフにとっては楽しくてやりがいを感じられ、結婚出産があっても長く勤められる環境。そして医院としては継続的に安定した経営環境が必要です
これらを解決するには院長一人の力では到底不可能です。院長はビジョンを示し、かつ一人の歯科医師としても責任を果たし、その上でスタッフが全力を出せる環境を作り、そうしておいて医院全体で患者さん一人一人に心からのシンパシーを感じられるように医院を作る。そうすれば、むし歯や歯周病のような予防の出来る慢性病は患者さんと協力し共感しあいながら減らしていくことが出来ると考えています。
簡単に言うと、患者もスタッフも、みんなが生き生きとした、より良い人生をおくるためのお手伝いをするステーションにこの医院をしたいと思っています。

生まれた所は東京の文京区でした。両親と姉、兄の末っ子でした。「always・3丁目の夕日」のすこし後という感じのころだと思います。父は大学を出てまだ数年の内科医で母は大学では生物学科専攻でしたが何か考えがあったのでしょう、中学校の特殊学級の教諭をやってたようです。私が生まれた時は父はまだ大学で研究もしていたようでたいそう貧乏だったとよく母が話をしていました。当時住んでいた音羽という所はまだ空き地も多く、目の前では首都高速道路を作っている所で建築現場でザリガニつりなどをして遊んでいました。貧乏ながらも比較的平穏な子供時代であったのではないかと思います。
その後横浜に引っ越して少年時代を過ごしました。家から歩いて暫くの所に高いフェンスが張り巡らしてあり、その向こうは綺麗な芝生の豪邸が見渡す限り並んでいました。当時フェンスの向こうのアメリカとこちらの経済格差は圧倒的で、彼らは今よりずっと威張っていたと思います。そのことに私たち悪童は納得してはいなかったと思いますし、気持ちの上では彼らに屈したことは無かったと信じています。今では横浜というとお洒落な感じがしますが当時は漁師町がコンビナートになったばかりの荒れた土地柄で喧嘩の絶えない小学生時代でした。椎名誠の喧嘩ばかりだった漁師町での少年時代ほどではないとおもいますが、やはりこんな環境は私の人格形成にすこし影響を与えたかも知れません。
その後東京に戻り、なんとか新潟大学の歯学部に滑り込むことができました。なぜ医学部ではないのかとよく聞かれます。当時歯学部は難しかったですが、医学部はさらに難しかったということも勿論ですが、他の要因もあります。

古いタイプの父はなかなか本音を言わない人でしたが、末っ子の私には時々本音を漏らしていました。「医者は大変だからお前はもう少し楽なのにしろ」と聞かされた当時、父はひと月間くらい毎夜夜中の2時くらいに危篤の患者さんの往診に行っていました。それでも朝から普通に病院に行き愚痴はありませんでした。当時毎夜電話を取り次いでいた私は中学生でしたが「こんな仕事自分には勤まらない」と思いました。それに父はいつも英語やドイツ語の医学書を読んでいましたから「こりゃ俺ごときがやっていける仕事じゃないな」とも思っていました。音楽とプラモデルが趣味みたいな少年でしたので美術系の学校に行きたいと言ったら父親に「ふざけるな!」と怒鳴られたこともあり、中間的な、こんなところに落ち着いたというところでしょうか。